「認罪への道」

 彼らは管理所収容から4年目ころから、過去を振り返るように指導され(強制では無い)少しずつ自らの過去を振る返えるようになっていった。

 最初は加害・虐殺の事実は求めるが「それは命令であり、責任は命令者にあり自分はそれほど悪くない」との反省でした。しかし、管理所から「被害者がそれで納得するか?」と問われ反論ができず、自身の「実行者」としての責任を認めるようになる。

 次には担白(自白)したほうが有利のようだと計算したり、過大に書くと事実だけ書くようにと諭され、やがて犠牲者の立場を考え心底反省に至っていくが、その間、6年もかかったことになる。

 そして、56年の「「特別軍事法廷」では1069人のうち、起訴されたのは政府・軍高官の45人だけで他は全員「起訴免除」許された帰国を許された。起訴された45人もシベリア抑留の5年と、管理所の6年が刑期に参入され殆どが刑期満期前に帰国を許された。

 満州国国務院総裁長官だった武部六蔵は病で入院中の病院のベッドで「禁固20年」と言い渡された直後、「病のため直ちに釈放」と言い渡され彼がベッドで号泣している写真もある。彼はそのままタンカの乗せられ興安丸に乗船し帰国したのである。

 

 帰国に際しては全員に新しい服や靴、毛布などは支給され、現金50元まで渡され土産を買い、3回に分かれて興安丸で舞鶴港に帰国したのである。